放物線を描いた力
中学生の頃、私には自慢ができるものがありました。それは、「バスケットボールへの情熱」です。中学生の頃の目標は、「高校のインターハイで全国優勝すること」でした。ですが、私はバスケットボールが下手くそでした。だから、「上手になるためにたくさん練習しよう」と心に強く唱え、中学校3年間を過ごしていました。部活動の時間は、誰よりも早く体育館に行きシュート練習をしました。下校後は、夜遅くまで近くの駐車場でドリブル練習をしていました。雪が降った日でも、大きなスコップを持って約5km離れた野外コートへ。雪が積もったコートを雪かきして練習していました。私は、「たくさん練習して上手になりたい」という「バスケットボールへの情熱」では、日本一になれると感じていました。
梅さんと出会うまでは。

入学後、私は「毎日1番に体育館へ行き、誰よりも早く練習を始めよう」と心に決めていました。ですが、いつも私よりも早く体育館に来て、練習を始めていたのが梅さんでした。ある休日、部活動前に体育館で自主練をしようと自転車に飛び乗り学校へ向かいました。学校についたのは、朝7時。部活動まで1時間以上あります。体育館に入ると、梅さんが1人でシュート練習をしていました。翌週の休日、私は「梅さんよりも早く練習を始めよう」と大急ぎで自転車で学校に向かいます。学校に到着したのが、朝6時30分。学校はまだ閉まっていました。生徒玄関前には、本を読みながら待っている梅さんの姿がありました。
「私は、バスケットボールの情熱で日本一にはなれない」。そう感じた瞬間でした。
梅さんが体育館に早く来る理由は、「シュート練習」だけではありませんでした。梅さんが体育館に来てまず行うこと。それは、練習の準備でした。ボール・タイマー・モップ掛けなど。誰よりも早く、練習で使うための用具の準備をしていました。ある雪の降る寒い日のことです。私たちは、ジェットヒーターを使って練習していました。練習中、ある部員のジャージがヒーターの金具に触れ、焦げてしまいました。ヒーターの金具には、焦げ跡がクッキリ。
翌日、焦げ跡はきれいに無くなっていました。
高校時代の練習は厳しいものでした。練習時間は2時間でしたが、常に走りっぱなしのメニュー。練習中、コートの4つ角に生徒の具合が悪くなった時のため、4つのバケツが設置されたこともありました。練習の中で、先生からの「集合」がかかります。集合時、先生の目の前には、いつも梅さんがいました。いつの日だったか、梅さんが持っていた「バスケノート」を見せてもらったことがあります。そのノートには、指導の中で先生が発した言葉がぎっしりと詰まっていました。私は驚きました。なぜかって?「バスケノートを書く」ということを、どの部員もしていなかったからです。
私たちのチームに「バスケノートを書く」という決まりはなかったのです。

つづく