陽の当たらぬ3年間
梅さんの放ったシュートが次々とリングに吸い込まれていく。その美しい放物線を、ベンチに入ることを許されなかった私は、2階応援席から眺めていました。2001年インターハイ富山県大会決勝戦。梅さんのシュートに導かれ、私たちは創部初の県大会優勝を達成しました。
今から約20年前。私は、高校1年生でした。新潟県からの越境入学。中学校時代に何の実績もない私は、富山県の名門高校の門を叩きました。入部後も練習について行くのがやっと。「新潟に帰れ」。悔しくて、悔しくてたまらなかった。同学年の仲間には、中学時代にジュニアオールスター都道府県大会(全国大会)で準優勝した時のシューター・村上や195㎝片原らがいました。そんな輝かしい中学時代を過ごしてきた同級生の陰で、私は陽の当たらぬ高校1年目を過ごしました。
当時の3年生は、本当に輝いていました。ポイントガードの草切さんは、50mを6秒台で走り抜けるスピードスター。永井さんは、1試合3Pを10本入れるクイックシューター。蓮さんは、190㎝90㎏の恵まれた体格を生かしゴール下を支配していました。私にとって、憧れの先輩たちでした。
そんな3年生の中に、梅さんという先輩がいました。身長175㎝。中学時代は、陸上をやっていました。彼もまた、輝かしい同級生の陰で陽の当たらぬ1年、いや3年を過ごしていた1人でした。そうです。梅さんは、3年間公式戦はもちろん、練習試合でも、ほとんどコート上に立つことができなかったのです。なぜかって?
梅さんは、バスケットボールが上手ではなかったからです。

バスケットボールが上手ではなかった梅さん。毎日、毎日先生に怒られていました。レイアップシュートを外す梅さん、キャッチミスする梅さん。足の遅い梅さん。怒られる毎日。ある時は、グラウンドを何時間も走らされていたこともありました。そんな梅さんでしたが、チームメイトからの信頼は絶大でした。なぜかって?
梅さんには、チームでNo.1の「3つの大きな力」を持っていたのです。この「3つの大きな力」が、後に我が高校の創部初となる県大会制覇に繋がるとは。誰もが想像もできませんでした。

つづく